日本の3大ジャズ・フェスティバル
日本のジャズ・フェスティバルの歴史は今から30年程前、1977年にライブ・アンダー・ザ・スカイ(以降、ライブ・アンダーと表記)
が田園調布で開催され始まった。1982年にニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾(以降、斑尾・ジャズと表記)が始まり、
1986年にはマウントフジ・ジャズ・フェスティバル(以降、マウント・フジと表記)が第1回目の開催をむかえた。
1回目の斑尾・ジャズが開催された1982年からライブ・アンダーが終了となった1992年までの10年間は 日本におけるジャズ・フェスティバル全盛期。特に1986年から1992年にかけては、前出の3大ジャズ・フェスティバルが開催され、
7下旬のライブ・アンダー、8月上旬のマダラオ、8月下旬のマウント・フジ、どのフェスティバルに行くかを決める事は嬉しい悲鳴であった。
全部行ったファンも沢山いるようだ。ジャズ・フェスで夏が始まり、ジャズ・フェスで夏が終わった。 時代はまさにバブル経済、日本が乱舞していた時代。
また、3大ジャズ・フェスティバルは野外で開催されてきた事も大きな特徴。 台風直撃でステージが破壊された事、
悪天候に対抗するような気迫した演奏、等など野外ならではのエピソードが沢山ある。 また富士通が特別協賛している富士通コンコード・ジャズ・フェスティバル・イン・ジャパン(以降、コンコード・ジャズと表記)も1986年から始まった。
バブル経済崩壊前後
1980年代はアナログ時代、ソニー・ウォークマンやメタルテープが使用できる
ラジカセ・メタル365が羨望の的。この時代はまだインターネット等の情報インフラが発達していなく、 人が集まる所での宣伝も効果的であった。
ライブ・アンダーはJT、斑尾ジャズはバドワイザーやボーダフォン等、マウント・フジがハイネケン、スバル等から特別協賛を受けた。 特別協賛以外にも数々の企業が協賛しており、特別協賛も含めスポンサーは時代とともに移り変わった。
初回から10年間斑尾・ジャズを特別協賛をしていたサントリー・バドワイザーが1991年にスポンサーを降りたのは、 日本におけるバドワイザーの宣伝効果が達成された事がひとつの理由。
そしてバブル崩壊とともに、1992年にライブ・アンダー・ザ・スカイ、1996年にマウント・富士が最後の開催となった。 斑尾・ジャズは1995年から1997年に開催休止となり1998年から再開したが、2003年の19回目を最後に開催休止となっている。
マウント・富士は2002年に復活。しかし2004年の14回目を最後に開催休止となった。
下記に3大ジャズ・フェスティバル開催年月と、各年1月における日経平均株価を示す。当初、ライブアンダー、斑尾ジャズ、マウント・フジにはそれぞれ、JT、バドワイザー、ハイネケン等が特別協賛を行ってきたがその目的が達成され、バブル経済崩壊を機にスポンサーを降板している。バブル経済崩壊後、
1990年代及び2000年代前半までに継続した日本経済低迷の中、各企業は宣伝戦略の変更を強いられた。
協賛企業サイドから見ると、これらフェスティバルは音楽等の文化的活動に対する理解を世間にアピールする手段だけでなく企業宣伝も目的。従いその目的が達成されたり、財政難や宣伝戦略の変更により、スポンサーを降りる事はある意味しかたがない。一方、富士通はバブル崩壊後も特別協賛を継続しており、
富士通コンコード・ジャズ・フェスティバル・イン・ジャパンはホール・コンサートの代名詞になっていたが、2014年に最終回を迎えた。
開催場所は以下の通り。
ライブアンダーザスカイ:1976年の1回目から5回目までは田園調布で開催、休止をはさみ1983年の6回目からはヨミウリランド・イーストで1992年の15回まで開催された。ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾:1982年の1回目から19回まで斑尾高原のスキー場を利用し開催された。マウント富士ジャズフェスティバル:1986年の1回目から10回目までは山中湖畔、11回は横浜ランドマーク・ホール。休止をはさみ12回、13回が富士スピード・ウェイ、14回目がコニファー・フォレストでの開催。
日本各地のジャズフェスティバル
3大ジャズ・フェスティバルやコンコード・ジャズは大きな企業が冠スポンサー。
これらのフェスティバルの成功は1980年代〜1990年代において一つのトレンドを作り出し、 以降日本各地でジャズフェスティバルが開催されるようになった。
地域と密接に結びつき地元企業の協力を得て開催されるジャズ・イベントが全国各地で毎年のように開催されている。(2007年4月14日TK)