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Newport-Madarao Jazz Festival History

本家ニューポートの伝統を受け継ぐ、 リゾートで
体感する真夏のジャズの祭典


歴史

ハード・バップ誕生前夜の1954年、米国ロード・アイランド州にある港町のリゾートで、歴史的な第1回 “ニューポート・ジャズ・フェスティバル”が開催された。夏には避暑地としてにぎわう町で7月17・18日の2日間 にわたりおこなわれたフェスティバルには、ディジー・ガシスピー、MJQ、ジェリー・マリガン、オスカー・ピーターソン、 エラ・フィッツジェラルド、レスター・ヤング、ビリー・ホリデイなどのビック・ネームが登場。1万3千人もの観客をあつ めて大成功を収めた。以来、その規模(会場、期間)を拡大し、1958年の第5回の模様を撮影した映画「真夏の夜のジャズ」が公開されると。“ニューポート”はジャズ・フェスティバルの代名詞として広く世界のジャズファン 認知されるようになった。

そして60年代に入り、メジャー・イベントとしての地位を確固たるものとしたニューポート・ジャズ・フェスティバルだったが、1971 年に事態は一変する。2日目の夜にヒッピーたちが暴徒と化しフェスティバルは中止に、ニュ-ポート市では翌年以降の開催も中止 とする決議に発展した。 そこで1972年からは、場所をニューヨークに移して開催。カーネギー・ホールやフィルハーモニック・ホール、ヤンキー・スタジアムを 会場に、出演アーティスト600人という大規模な都市型フェスティバルとして復活した。その後、クール・ジャズ・フェスティバル・ ニューヨークと名前を変え今日に至っている。また、現在では、その発祥の地ニューポートでもJVCジャズ・フェスティバル・ ニューポートとして、再び開催されている。


日本への誘致

そんな世界に冠たるニューポート・ジャズ・フェスティバルが、1982年、日本にやってきた。それは斑尾の有志による“手作りイベント”として始まったのだ。 そもそも斑尾高原は1972年にスキー・リゾートとして誕生した。地元ではその開発10周年を迎えるにあたり、 “ジャズを斑尾の夏の顔にしよう”“やるからには世界に通じるものにしよう”との話し合いが持たれ記念事業の目玉としてニュポート・ジャズ・フェスティバル誘致への働きかけが始まる。これが 第1回目を開催する2年前、1980年のことだった。翌81年、初めて斑尾を 訪れたプロデューサーのジョージ・ウィン氏は、そのロケーションと人々の思いに感激し、この地で「トータルなジャズ体験を味わえる“ジャズ・ビレッジ”を創出しよう」との構想を抱く。

そして1982年7月27日、スパイ・ジャイラをオープニングに、ついに記念すべき第1回“ニューポート・ジャズ・フェステイバル・イン・斑尾”が開催された。 “ジャズ・ビレッジ”のコンセプトのもと、82年〜87年は5日間連続(水・木・金・土・日)という画期的な開催日程でおこなわれた。 88年と、90年以降は前夜祭をかねた東京での1日と、週末の斑尾での3日間に変更されたが(現在は斑尾での金・土・日のみ)、斑尾の ジャズはすっかり夏の風物詩として親しまれるようになった。ニューポートと斑尾では、海辺と高原との違いはあるが、どちらも都市を離れたリゾート(避暑地)であり、豊かな自然の中でアーティストと観客とが一体となって感動を共有する事に変わりはない。そうした意味からも、斑尾は間違いなくニューポート直系の正統な分家なのだ。


今後の展望

もちろんこれまでの21年間、すべてが順調だった訳ではない。ご存知のように阪神淡路大震災が発生した 95年から3年間、フェスティバルは休止を余儀なくされた。しかし“斑尾”と“斑尾のジャズ”を愛してやまない関係者の情熱によ って、98年、見事に復活を逐げている。また、フェスティバル休止の97年10月には、長野新幹線と上信越自動車道・豊田 飯山ICが開通し、斑尾はいっそう身近なものになった。こうして数々のビッグ・ネームや新進気鋭のアーティ ストを迎え、また多くの人々の熱意に支えられながら、歴史を刻んできた斑尾のジャズ・フェスティバルだが、実は今年に入り、このフェスティバルを立ち上げる中心となった、当時のフェスティバル実行委員長・小川 邦夫氏と副委員長・仲条平三氏が相次いで他界された。新たな節目となる20回目の開催を来年に控えてのことである。しかし音楽が時代とともに進化するように、このフェスティバルも両氏を始めとする先人たちの 意志を受け継ぎながら、次代へと発展を続けるに違いない。 (P2003)

 

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