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ジョージ・ウェイン物語
児山紀芳
ジョジージ・ウェインのプロフィール
生立ち
生まれたのは1925年10月3日で、マサチューセッツ州ボストンの産まれである。現在も健在な父親は、ボストンではドクター・バーネット・ウェイ ンの名で知られ、誰知らぬ者のない著名な整形外科専門の医学博士である。母親ルース・ウェインは、ビアノを弾き、ジャズに取りつかれたジョージがボス トン大学生の頃、レッド・アレンとかJC・ヒギンボッサムとかフランキー・ニュトンといった黒人ミュージシャンを夜遅く自宅に連れて帰ってきた時などは、深夜だというのにミュージシャンたちに温かい食事をふるまうような母だった。
黒人と白人のミュージシャンが共演することすらタブーとされた当時からウェインー家は「自由」の気風をモットーとした。 それでもジョージの両親は、さすがに息子が1948年にボストンのオペラ・ハウスの楽屋で見初めた黒人女性ジョイス・アレキサン ダー(現夫人のジィス・ウェイン)と結婚しそうだと知ったときは猛然と反対した。そんなわけでジョージとジョイスは出会って以来、 10年も経って1959年にようやくニューヨーク州の小さな町の教会でこっそりと結婚した。『人種的な間題さえなければもっと早く結婚したはず』 と、ジョージは語っている。2人の間に子供はいない
音楽以外の側面
仕事を離れた時のジョージ(今では、世界中のどこにいても、仕事から完全に離れられるということは減多にないというのが現実だが)は、夏のフェスティバが一段落する9月、10月は南仏ニースの別荘で過ごすのが常だ。趣味はワインと絵画のコレクションである。フランスのワインに関する知識は相当なものでワイン通の親しいミュージシャン、例えばMJQのジョン・ノレイスといった“仲間"に対してはこのギャラの代りにワインで支払うといった遊びまでやるほど。 絵画のコレクション は、「ジョージ・ウェイン・コレクション」の名でちょっとしたエキシビジョンが開けるほどに充実している。 集めているのは主に抽象派の画家のもので、マックス・工ルンスト、アンドレ・マッソン、ミロ、ビクター・ブラウワ ーンの作品が多い。(写真:1960年頃のジョージ・ウェイン とルイ・アームストロング)
またアメリカの黒人画家の作品も多数集めていて、ロマール・ベァーデン、ジェコブ・ロウレンスの支援者である。そのほか、ジャズをテーマにしたような作品なら気に入れば何でも買うというやり方で、無名の作家の作品(例えばクラリネット奏者、故ピー・ウィー・ラッセルの作品など)もずいぶんと集めている。ジャズをテーマにした絵画のコレクションではすでに世界でも類例のない貴重なコレクションといえるまでになっている “ジャズ・フェスティバルの帝王''は一方で熱烈なオペラのファンとしても知られる。特に歌手のポール・ロブソンとルチァーノ・バ ヴァロッティの大ファンで1978年には長年の夢だったパヴァロツティのコンサートをシンシナチで実現させて いる。(写真:1968 年2月18日、ジョージ・ウェインとカウント・ベーシー)
ミュージシャンとしてのジョージ・ウェイン
ボーカリスト・ピアニストとしてのジョージ
ジョージ・ウェインがオペラ歌手のファンだというのは、実はジョージ自身が歌うことが大好きだからでもある。今でも興が乗ればジョージは、ステージとかニューヨークのアパートなどで弾き語りを聴かせることもある。 子供の頃のジョージは、もっと凄かったらしい。なにしろビング・クロスビーとかネルソン・エディといった歌うスターの映画を観ながら大声で歌うので映画館から何回もつまみだされたというエピソードが残っているほどなのだ。 余談だが、プロ入りしたジョージは、1955年にボーカル・アルバムをアトランティック・レコードに吹き込んでいる。「ウェイン、ウーマン&ソングス」というタイトルでボストン時代からの音楽仲間ルビー・ブラッフとかボビー・ハケットらとの共演で、 ジョージは〈ワンス・イン・ア・ホワイル》とか《フー・ケアーズ〉などを歌っている。これなどは、ジャズ・レコードとしては珍品中の珍品といえるだろう。(写真左:ジョージ・ウェインとデューク・エリントン)
歌はさておき、ジョージのピアノは本格的である。もともと音楽に興味を持ったのは母親のピアノの影響 と兄のラリー(故人)がジャズ・ファンだったことにもよる。まず8才でクラシック・ピアノを本格的に習 いはじめた。ボストンでは有名なマーガレット・チャロフ女史が先生だった。チャロフ女史は天折し たバリトン・サックスの天才サージ・チャロフの母親として知られる。そのチャロフ女史について5 年間みっちりクラッシク・ピアノのレッスンを受けたあと、ジョージはジャズ・ピアノに転じた。 当時、ボストンには全米屈指のジャズ・ピアノの先生がいた。その名をサム・サックスといい、 巨人アール・ハインズの流れを汲む名手だった。このサム・サックスに目曄したジョージは、 当然のようにジャズ・ピアノの父、ハインズの信奉者となった。
ジャズへの情熱
1943年12月から1946年4月までジョージは2年と9ヶ月間陸軍兵役についた。除隊後、ジョージはボストン大学医学部に入ったが、同世代のルビー・ブラッフらと親しくなって、ジャズヘの情熱はますます捨て難くなった。それでも『大学時代プロになるつもりはなかった』が、週末などには地元のクラブでピアノを弾いた。1948年の夏期休暇の時は、ニューヨークに出て、当時ジュリアード音楽院のピアノ教授だったテディ・ウィルソンから特別な手ほどきを受けた(ピアニストとしてのジョ一ジは今でもアール・ハインズとテテン・ウィノレソンの2人を最も尊敬しているという)。1950年に大学を卒業したジョージは地元の中国料理店から週給90ドルでピアノを弾く仕事をもらった。その時以来、ジョージ・ウェインは『プロデューサーであるまえにミュージシャンである………』をモットーにずっとジャズの道を歩み続けてきた。 (写真:1968年、「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」のステージ」
レコーディング
レコードの面でも1951年2月にウォルト・ギフォードのニューヨーカーズで初吹込みを果たして以来、ルビー・ブラッフ、シドニー・ベシェ、ヴィック・ディッケンソン、ジョー・ジョーンズら 名手と数多くの吹込みを残している。また「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」をプロデュースするようになってからのジョージは、フェスティバルの名を冠したオールスターズを結成して、 リーダーにおさまり、現在もこのオールスターズで年間2か月近くは欧米各地を巡演、レコーディングも精力的に行なっている。
特に近年コンコード・ジャズ・レーベシルから発売された1984年録音の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル・オールスターズ」(アリゾナ州立大学コンサートのライブや最近作の「ヨーロピアン・ツアー(1987年5月スイスでのライブなど)は、ジョージのオール・スターズの実力を堂々と伝えてくれる立派なアルバムである。後者などハロルド・アシュビー、スコット・ハミノレトン、アル・コーンというテナーサックスの名手3人を一堂に集めた豪華ラインアップで、モダン・スイングの粋を聴かせてくれる。アール・ハインズとテディ・ウィルソンを愛するというジョージ。今ではプロデューサーとして有名になり過ぎ、ミュージシャンとしての ジョージは見逃されがちだ。しかし、ジョージが最も幸せな時はピアノを弾いている時である。その気持は前記の2枚のアルバムからもよ く伝わってくる。(写真:1980年3月6日、ミッチェルのパブにて)
プロデューサーとしてのジョージ・ウェイン
「サザォイ」へのブッキング
1954年7月17日にロード・アイランド州ニューポートで開かれた第1回ニューポート・ジャズ・フェスティバル」のプロデュースを手がけたのがはじまりで、一躍脚光を浴びる存在になったといえる。しかし、ジョージにはプロデューサーとしての才能が早くから備わっていたようだ。ジョージが語るところによれば、プロデューサーらしい仕事の最初は大学卒業後の1950年に中国料理店でピアノを演奏していた時、地元のクラブ「サザォイ」のオーナーから出演ミュージシャンのスケジュールを組み立ててくれないかと頼まれて、手がけたのがはじまりだと言う。ジョージはピー・ウィー・ラッセル、ボビー・ハケット、エド・ホール、バスター・ベイリー、ヴィック・ディッケンソン、ルビー・ブラッフといった仲間のミュージシャンを集めて「サザォイ」へのブッキングを受け持ったが、これが大成功し、その直後エド・ホールとコンビを組んで「ジョーダン・ホール」でコンサートをひらいたところ、これも当たったという。
その成功に勇気づけられて、ジョージはボストンの有力ホテル「コプリー・スクェアー」内にジャズ・クラブ『ストーリービル』を自らの手で開いた。『ストーリービル』は以来ジョージがニューヨークに移住を決意した1960年までの10年間、ボストンのジャズのメッカとなった。ジョージは、同じ名前のレコード・レーべルも同時に興し、数々のライブ盤を作成した。ジョージは、『ストーリービル』ではチャーリー・パーカーなどのモダン派も出演させるので、トラデイショナル・ジャズ専門の『ホガニー・ホール』を別にオープンした時期もあった。(写真:「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」でのスナップ。ジョージ・ウェインに話しかけるマイルス・ディビス)ともあれ、ジョージはジャズ界に身を投じたその日からもうすでに ミュージシャン兼クラブのオーナー兼プロデューサーとして一人何役もの活躍を開始したことになる。そんなある日、1953年のこ と『ストーリービル』に母校ボストン大学の教授ドナルド・ボーン氏がルイスとエレインのロリラード夫妻をつれてやってきた 。『来年の夏、ニューポートでアメリカで最初の野外ジャズ・フェスティバ〃を開きたい。ついてはプロデュースを頼む』というものだった。 ロリラード家は全米3大タバコ会社のひとつを経営する米国有数の金持ちだった。当時・ニューポートは、米国でも屈指の大金持ちの集まる上流 社会の避暑地として知られ、ニューポートでの名士たちの生活ぶりやゴシップは全米の新聞社がマークするほどに注目度の高い土地柄だった。
第1回「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」(1954年)
954年にニューポートで開かれた第1回「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」は、予想外の反響を巻き起したちまち全米のみならず世界中が関心を寄せるホットなニュース・アイテムとなった。その時からジョージ・ウェインとニューポート・ジャズ・フェスティバルは同義語として世界に知られるようになったわけである。今回、ジョージ・ウェインと彼が主宰するフェスティバル・プロダクションは、年間を通じておよそ1OOO件にものぼるジャズ・イベント、コンサートを手がけるまでになっている。ニューポートに端を発したフェスティバルは今や世界の各地に広がって、その土地、土地の重要な文化的年中行事となっている。(写真:1971年に開催された本家ニューポート・ジャズ・フェスティバルのパンフレット)
1954年以来の長年にわたるジャズ・フェスティバルのプロデューサーとしての功績、ジャズ界への貢献に対し、ジョージは世界各国から数々の表彰を受けている。1978年6月18日にはジミー・カーター大統領がホワイト・ハウス・ジャズ・フェスティバルを主催して、ジョージ・ウェインとニューポート・ジャズ・フェスティバルの25周年記念を祝った。 1980年には、ジョージはフランスから文化勲章を贈られているし、そのほかボストンのバークリー音楽大学からは名誉博士号も贈られ、このところは、毎年のように夏ともなればニューヨークて催されるジャズ・フェスティバルに対し、コッチ市長自らが『ニューヨーク市最大の文化的年中行事』としての祝福を電波に乗せるのも恒例となっている。 そのジョージが『マダラオのフェスティバルはサイコー』といつも言う。『どういう意味?』とー度はきき返してみるといい。『海抜1000米の斑尾は標高が世界で最も高い場所でのフェスティバル』という答えが笑顔で帰ってくるはずだが、意外と当のジョージ は本気なのである。(写真1986年ホワイト・ハウス、カーター大統領と)
マダラオが、みつづけてきた私の夢を実現してくれた
1981年小川邦夫氏の招待により初めて斑尾高原を訪れた際私は強い興奮を覚えました。何年もの間、私は世界のどこかで山の中に“ジャズ・ヴィレッジ"を作りたいという構想を暖めてまいりましたが、斑尾高原についた瞬間、これこそ、私の夢見ていた“ジャズ・ヴィレッジ"であると気づいたのです。心をなごませる美しい景観、新鮮な空気そして仲條平三氏をはじめとした斑尾の人々は本当に暖かく迎えて下さり、私は日本でもう一つ家族を持つことができました。斑尾は理想的な土地柄とすばらしい仲間に恵まれています。これらが一つになって、世界でもっとも素晴らしいジャズ・フェスティバルを生みだしてくれることと確信しております。 (写真:実行委員長(故)小川邦夫、ジョージ・ウェイン、副委員長(故)仲条平三)
心をこめてジョージ・ウェイン/プロデューサー
イラスト:A.HISSCHFELD
写真:T.DULLY C.ZUMWALT J.V.STRONG T.ARIHARA D.REDFERN R.PARENT K.KOYAMA D.TAN L.FEATHER
(1988年)
ニューポート・ジャズ・フェステイバル・イン・斑尾を当時、立ち上げた中心的人物、小川邦夫氏、仲条平三氏が2003年に他界されました。先人の意思を受け継ぎこのフェスティバルが今後も未来永劫、発展する事を希望します。(2004年9月18日)
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