COVER

世界の音楽スポット
ナビ
モンタレー
ニューポート
モントルー
ニューヨーク
メンフィス
 

 

初めてアメリカ本土に渡ったのは今から10年程前の1994年。成田からサンフラン・シスコを経由しメンフィスに行った。

ビェール・ストリートにあったカフェの店先に「メンフィス・ブルース・フェスティバル」のポスターを見かけた。開催場所はトム・リー・パーク、ミシシッピー川の畔にある公園だ。
出演メンバーはB.B.キング、リトル・フィート、ドクター・ジョン。日時は8月13日午後6時、1994年の事である。

ヤフー・アメリカで今年(2006年)開催されているか確認したが、残念ながらヒットされなかった。「Memphis Tri-State Blues Festival」「W.C.Handy Blues Festival」「Beale Street Music Festival」などが替わりにヒットされた。「Memphis Bluse Festival」はそれらに名前を変え引き継がれているのかもしれない。(2006年9月22日(C)TK)

ブルースやR&Bを体感するにはこれ以上ない場所がメンフィスだ。そのダウン・タウンにあるのがビェール・ストリート。映画のロケセットのようなアメリカ南部の町並みが続く。BBキング・ブルース・クラブもある。ダウン・タウンにあるキングス・コートと言うモーター・インに宿泊した。ヤフーで検索したらなんとヒットされたのには驚かされた。あれから10年以上経過しているが、まだその場所で営業しているようだ。 (2006年9月30日(C)TK)


W.C.ハンディ公園では地元のミュージシャンの演奏も聴く事ができた。普段は仕事をして、ハンディ公園でR&Bを演奏、バンドマンとしてこれ以上ないシチュエーション。 バンドのマスターはベースの人。ドラム・セットは見るからに安そうなセット。しかしそんな事は感じさせないハイテンションなドラムを叩いていた。 ギタリストによるギター・バトルもかなり聞き応えがあった。その場の空気がびびるようなギター・プレイであった。普通の人なのだが信じられないくらいに上手い。(2006年10月1日(C)TK)


ビェール・ストリートの両側には、ブルース・クラブ、カフェが並んでいる。昼はラム・ブギー・カフェでランチ。テーブルに着きメニューを見たがどんな料理がでてくるのかさっぱりわからない。 そこで3ドルでバドワイザーも付いてくる「レッド・ビーンズ」という名のランチをオーダした。見た目おかゆのなかに小豆のような豆が入っており、スモーク・ソーセージ、パン、そしてバドワイザーのハーフ・ボトルのセット。 一口食べてみた。アメリカ南部の家庭料理、この味は一つのカルチャー・ショックであった。

ランチを食べているとき、ふと頭上を見るとマシンガンらしき小火器でぼこぼこにされたイエロー・キャブの扉が飾ってあった。(2006年10月1日(C)TK)


メンフィスと言えば、エルビス・プレスリーの存在も無くしては語る事ができない。エルビスが過ごした グレース・ランドは正確にはメンフィスがあるテネシー州でなくミシシッピー州に存在する。

ダウン・タウンの観光案内所で地元のバス・ツアーを申し込みグレース・ランドにも足を運んだ。小泉首相がアメリカのブッシュ大統領と行ったあのプレスリー御殿である。

さすがにエルビスのサングラスをかける事はできなかったが、ビルボードのゴールド・ディスク、衣装、 自家用飛行機等を目の前にして生前のエルビスを偲ぶ事ができる。
エルビスが世界的に有名になったのは白人なのに黒人のようにソウル・フルなボーカルを持っていたからだ。(2006年10月1日(C)TK)


CI

ダウン・タウンの中心部には、W.C.ハンディ公園がある。
W.C.ハンディ(William Christopher Handy:ウイリアム・クリストファー・ハンディ)はブルースの父と呼ばれブルースの話をする時には欠くことのできない存在。この公園にハンディの銅像があり、ブルースの父と刻まれている。

ハンディはアラバマ州で牧師の子供として誕生。若い頃にアメリカ南部を音楽仲間とバンドを結成し、放浪しながら音楽を演奏した。この間に各地で遭遇した黒人霊歌、労働歌を譜面として残した。これらがブルースの起点となる。
セントルイスにたどり着いた時は、橋の下で野宿をして生活した。「セントルイス・ブルース」は、それがもとになり作られた。晩年はメンフィスに移り住みビェール・ストリートのデューク(酒場)を拠点にして音楽活動を始めた。 このストリートがブルース発祥地であると言われる所以である。(2006年10月1日(C)TK)

 

ナビ
モンタレー
ニューポート
モントルー
ニューヨーク
メンフィス
 

COVER